鹿ノ台のまちづくり
場所
奈良県最北部に位置し、京都府精華町と隣接する町。
[map addr=”奈良県生駒市鹿ノ台南2-3-5″] 鹿ノ台いきいきホール[/map]
施設紹介
まちづくり活動まとめ
永遠のニュータウン鹿ノ台
ふるさとづくり大賞2018
鹿ノ台の魅力
鹿ノ台の魅力をたくさん集めてみました → 魅力ページ
鹿ノ台データ
総人口 7031人 (生駒市の5.9%、奈良県の0.5%)
出展:e-Stat / jSTAT map 平成27年国勢調査 →小地域集計 →29奈良県
→表番号3「年齢(5歳階級),男女別人口,総年齢及び平均年齢(外国人-特掲)-町丁・字等」
鹿ノ台の歴史
今の生駒の地にいつ人類が住み始めたかはわかっていません。
稲作が伝わった弥生時代(1世紀頃)には、南生駒にも小さな村が生まれました。
古墳時代になると、往馬大社近くに豪族の屋敷が建てられ、神祭りも行われたようです。
奈良時代には平城京と難波京を結ぶ道路が通り、人々の往来が増えます。
(出展:ハンドブック「生駒の歴史と文化」p1)
さて、鹿畑、鹿ノ台に目を向けて行きましょう。
昔より、鹿畑村あり。(400年に素盞嗚神社建立記録が有るが村ができたのはそれ以前だろう)
一部伝説によると、昔鹿が住んでいたため、鹿畑村と名付けられた。
其の鹿を奈良春日大社へ奉納したようだ(by鹿畑村の鎮守の素盞嗚神社による神社記録。原文こちら)
また、光明皇后(701年-760年)は鹿畑の出身という伝承もある(by 素盞嗚神社の神社史)
平安中期~鎌倉 時代には広大な興福寺領荘園がありました。
その中の大乗院領上鳥見荘が上町~鹿畑町を治めていました。
大乗院領上鳥見荘が生まれた時期ははっきりしませんが、鎌倉末期には57町7段という大きな荘園になっていました。
大乗院領と言っても、その支配下にあった菩提山宝峰院が実質的な領主であり、
興福寺寺門(寺院中枢)や菩提山方音韻なども得分を持っていました。
おそらく平安時代の鳥見壮が起源になり、いくつかの私領が付け加えられて、地域的まとまりをもった上鳥見壮に成長していったのでしょう。
また、真弓山長弓寺が上鳥見壮の中心地であったようです。(大乗院の運営マニュアルとも言うべき「三箇院家抄」)
(出展:ハンドブック「生駒の歴史と文化」p20)
余談ですが、
室町時代~戦国時代には高山町を本拠とした鷹山一族(興福寺一乗院の衆徒)が有名です。
1455年に興福寺の中の20名の有力衆徒の中の一人(官符衆徒)に任じられ勢力を拡大しました(出展:生駒ふるさとミュージアム「戦国の生駒」p5)
15世紀中ごろには大和南部に勢力を張った越智氏の一門であり、
応仁の乱が始まる15世紀後半以降、畠山義就派越智党として活動します。
なかでも鷹山弘頼(1553年没)の時代に全盛期を迎え、大和国内外で活躍し、畠山(はたけやま)氏の配下で重きを占めて大きく勢力を伸長させました。
しかし、16世紀初めには大和北部を地盤にした筒井氏(後に織田・豊臣政権下で大和の支配者)に立場を改めました。
(出展:生駒ふるさとミュージアム「戦国の生駒」p9)
その鷹山氏の居城が高山城です。菩提寺は法楽寺、氏神は高山八幡宮。
鹿畑もおそらく鷹山一族の支配下にあったのでは無いでしょうか?
時代は移り、
江戸時代には鹿畑村は旗本堀田氏領でありました。(出展:ハンドブック「生駒の歴史と文化」p34)
明治5年(1872年)7月、「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」というフレーズで良く知られる学制が制定され、それを受けて翌年、生駒にも5つの学校が開校しました。鹿畑村にもその1つとして「優柔舎(ゆうじゅうしゃ)」が開校されました。
学制では県内の平均就学率は50%台に留まっていましたが、それでも全国的にはトップクラスでした。
そんな静かな農村であった鹿畑村であったが、昭和40年代の国道163号線拡巾整備をきっかけに
伊藤忠不動産(株)によって開発計画が進められ、
昭和53年頃より家が建ち始め、2年後には5000人を超えるという急速な発展を遂げ、
鹿畑から鹿ノ台地区が分離した。
総面積121.8ha, 総区画数2400、すなわち2400戸、1万人の入居を目標とする住宅都市である。
昭和54年(1949年)生駒北小学校より分離し、鹿ノ台小学校開校
昭和56年(1951年)生駒北中学校より分離し、鹿ノ台中学校開校
そして現在に至る。 (出展:生駒市誌 通史・地誌編5 地誌編1.4節)
思い出