鹿ノ台の紹介

鹿ノ台小学校開校当時の思い出  初代校長 池田 治

◆ 生駒市立鹿ノ台小学校は昭和54年4月1日に誕生しました。開校前の入居家庭、鹿畑町の子ども達は毎日4キロメートルの道を北小学校に通わねばなりませんでした。鹿畑町では15年前までは鹿畑小学校(現鹿畑地区公民館)があったのですが、学校統合のため廃校となり、大変不自由を感じておられたようでした。こうした時期に小学校が近くに戻ってきたことは大変な喜びであったようです。4月1日、開校なのに2月の終には校舎の建築、校地の整地ができ、いつでも子ども達を受入れられるように、と、これは鹿ノ台、鹿畑町両地区の方々の努力であっただろうと思います。

◆ 私達、教職員は4月1日付の辞令で同日参集。最初に口にした言葉は「すばらしい!美しい!」・・・。そして「よし、やるぞ、頑張るぞ」の気迫に満ちた顔でした。しかし、室内は折たたみ椅子が約300あるのみ、必要分だけ出し、校長室で全員車座になって、6日、始業式までに教室環境(机、椅子、教卓等の搬入)作り、職員室の整備等をしなければなりません。子どもの教育には一刻の待ったはない。喜び勇んで始業式に登校してくる子ども達に「よい学校に来た」と、よい印象をもってくれるように、と、語り合いました。しかし、日数は4日と限られている。やれるだけやるしかない。無我夢中時間のたつのも忘れて頑張りました。開校準備委員、組織準備委員、地域の方々の多大のご協力があったから無事に準備ができたと思います。

◆ また、こんなこともありました。4月8日、午後3時半頃「入学式の準備も完了、一息入れよう」と職員室にもどった時、市教委よりの連絡「新2年生を2組から3組にしなさい」と。すべての準備のやり直しです。学級名簿、式場の椅子、教室の机、椅子、名前の貼りかえ、教室かざり。学級が増えたら先生を増やしてもらうための申請手続き、やっと夜8時過ぎ完了しました。

◆ その後も学年度内に学校の編成替を何回となくくりかえしながら5年目には31学級、児童数約1300、と市内で一番のマンモス校となりました。転入生は長期の休みの終りや毎週月曜日に多かった。それで先生達は魔の月曜と呼んでいました。これは学校の生活や学習の雰囲気作りを、またはじめからやり直さねばならないからです。

◆ 開校以来、子ども達の成長を願い「伸びていこう、自分から」を鹿ノ台小学校教育の根底とし、心身ともにたくましく、自分から学習を開拓する子どもの育成をめざしてきました。開校以来、自治会の皆さま方の暖かいご援助、鹿ノ台小学校の先生方のご協力のおかげで、職責を終えることができました。感謝の気持ちで一杯でございます。ありがとうございました。

鹿ノ台中学校開校当時の思い出  初代校長 久保 實

◎ 西に生駒の山並を眺め、東に遥か春日、若草を望む高台に、春ともなれば緑したたる街路樹の並木ごしに、しよう洒な邸宅が見えかくれに続き、百花爛漫と咲き誇る美しい街「鹿ノ台」は、住環境抜群の、まさしくユートピアであります。

◎ 昭和56年4月開校された鹿ノ台中学校は、生徒数300名たらず、学級数は9学級と、比較的小規模のスタートであったと記憶しております。余裕ある3階造りの校舎はまことにデラックスで、運動場も広々としておりましたが、新設校のこと、中味はまだまだ不十分であります。生徒が落着いて学習出来る雰囲気を作り出し、設備備品を整えて行くことも校長の大きな仕事の一つでありました。少ない予算をやりくりしての備品の購入、緑の環境作りに走り廻った日々が思い出されます。

◎ 学校運営において重要な役割を持つ育友会の結成はみんなの等しく望むところでありました。学級委員さんの中から設立準備委員会を作り、まず会則の検討から始めました。何回となく打合せを繰り返し、共通理解をはかりながら、また一方では生駒北中の育友会長であった細谷元徳氏のご指導を受けながら、夏休みも終わった9月上旬にようやく「育友会設立総会」を開催する運びになり、会長に岡村元靖氏、副会長に荒川佶氏のコンビでめでたく発足したのであります。

◎ 学校のシンボルである校旗・校歌の制定も新設校の大きな課題でした。生徒たちに夢と希望を与え、未来を創造してゆく原動力となる格調の高いものでなければなりません。先生方や育友会役員の皆さんと十分に相談をしてその準備を進めたのであります。

◎ 校旗につきましては京都市内の専門店に依頼することにし「つづれ織り」と呼ばれる生地を使っての最高品質の豪華なものを注文しました。勿論値段も高価で、その捻出に頭を痛めましたが、幸い地域の名士の方々や、育友会の絶大な援助を受けて、念願が叶ったのであります。ようやく出来上がった校旗は入魂式を行うことになり、昭和57年元旦の午前零時より鹿畑町の神社で寒風の吹きすさぶ中、育友会役員、教職員代表十数名参列のもと、おごそかに入魂の儀が行われ、身の引締まる思いでした。

◎ 校歌は歌詞を広く一般から募集することにし、生徒をはじめ地域の多くの人達の作品を山村公治先生に選定していただき補作を受けることにしました。結果、父兄の新村裕子さんが、その栄に浴されたのであります。作曲は奈良教育大学の牧野英三先生にお願いし、年が明けて言下句に校旗、校歌の披露式典が盛大に挙行されました。

◎ このようにして新設校も順次体裁が整い、3月には第1回卒業生を送り出すことが出来ました。これも関係各位のご理解とご支援の賜であり、教職員の開校に対する意気込みと努力の結果であると深く感謝しております。

(旧ホームページから転載しました)